ベルギービール麦酒本舗 鹿児島の奇跡

鹿児島で唯一のベルギービールプロフェッショナル伝道師KOOHが、ベルギービール不毛の地【鹿児島】でひとりでも多くの人にベルギービールを広めていく伝道の物語

ブルゴーニュ公国について

マリー・ド・ブルゴーニュ、ドゥシェス・ド・ブルゴーニュでおなじみの ブルゴーニュ公国ですが、今日こんなメッセージがツイッター上で届きました @fumikohachi いとこ @BakushuHonpo ブルゴーニュ公国はベルギーにあったのですか?マリーさんの国。ベルギービールなのに何でフランス?と聞かれて。。。 ブルゴーニュ公国については今まで何度もお話しして来ているのですが、折角なのでブログ上でおさらいしておきましょう。 ブルゴーニュ公国(ブルゴーニュこうこく、仏:État bourguignon)は、14世紀から15世紀のフランス東部からドイツ西部にかけて存在した、ブルゴーニュ公領(Duché de Bourgogne)を中心とする、ヴァロワ=ブルゴーニュ家のブルゴーニュ公(Duc de Bourgogne)の支配領域ないしその支配体制をいう フランスの東部からドイツ西部とは現在のベルギーがある場所(が、含まれている)。当時の地図はこちら ちなみに現在の地図はこちら 歴史上、ブルゴーニュ公国が知られるのは、14世紀後半から15世紀半ば、ヴァロワ家4代のブルゴーニュ公の下、宮廷に華やかな騎士文化が開花したことによる。この時代のブルゴーニュ公国は、欧州の経済的先進地域であったフランドル(現在のベルギー周辺)を含み、経済・文化の一大中心地であった。公国の宮廷は初めディジョン(現フランス国内)にあり、1419年ブリュッセル(現ベルギーの首都)に移った。 シャルル突進公(勇胆公、無鉄砲公、猪突公とも、仏:Charles le Téméraire(シャルル・ル・テメレール) 1433年 - 1477年、在位:1467年 - 1477年) 領土拡大を夢見て、無謀な戦争を行った。一人娘マリーとハプスブルク家のマクシミリアンの結婚を承諾したのち、ナンシーの戦いで戦死した。 このマリーのお父様である、シャルル突進公が無茶な領土拡大を押し進めたためにブルゴーニュ公国は衰退。そしてフランス王ルイ11世の反乱により崩壊後のブルゴーニュ公国には大きな変化が訪れるわけですね。 ブルゴーニュ公国崩壊後の君主 マリー女公(Marie 1457年 - 1482年、在位:1477年 - 1482年) 父シャルル突進公の死後、フランス王ルイ11世の煽動により反乱が起こり、一時幽閉される。そこで婚約者マクシミリアンに救援を求め、結婚する。ブルゴーニュはフランス王領に編入されるが、ギネガテの戦いの勝利によりネーデルランドとフランシュ=コンテは確保する。マリーとマクシミリアンの共同統治となるが夫婦仲は極めて良く、共に領内を歴訪し支持を集める。しかしマリーは落馬事故にてあえなく落命する。ヴァロワ=ブルゴーニュ家男系が絶えたため、2人の息子フィリップ美公が相続した。公位と所領はその後、美公の長男である神聖ローマ皇帝カール5世からスペイン・ハプスブルク家へと継承された。 ハプスブルク家については数多くの文献があり、舞台や小説などにもなっているのでもっと詳しい方も多いでしょう。 マリーはブルゴーニュ公国崩壊後の統治に物凄く貢献した人物と言われていて、絶世の美人としても語り継がれているそうです。 元々は政略結婚だったのですが、マクシミリアンとは非常に仲がよく民衆からの支持も厚い人物でした。 25才の若さで落馬事故でなくなるのですが(当時の女性で乗馬やスポーツをするというのはなかなか無いことだったそうです)亡くなる間際にも「全ての民衆が仲良く暮らせるように…」的な言葉を残していたとか。 それを実現すべく、遺言状には「フィリップとマルグリット2人を公国の相続人に指定し、嫡男フィリップが15歳に達するまで夫マクシミリアンをその後見人とするものである」とし、家臣へ夫マクシミリアンに仕えるように言い残すが、彼女の意志は守られずブルゴーニュ公国は再び内乱の渦に巻き込まれた。 マリー (ブルゴーニュ女公) マリー・ド・ブルゴーニュ(Marie de Bourgougne, 1457年2月13日 - 1482年3月27日)は、ヴァロワ=ブルゴーニュ家のブルゴーニュ公国最後の君主、(名目上の)ブルゴーニュ女公(在位:1477年 - 1482年)。後の神聖ローマ皇帝ハプスブルク家のマクシミリアン1世の妻。領民たちからは「美しき姫君」「我らのお姫さま」と慕われていたという。 え〜と、つまり 14世紀〜15世紀のヨーロッパは領土争いで現在の地図とはかなり違う訳ですね。 実際、ベルギー王国が誕生したのは19世紀に入ってからです。(それまではネーデルラント連合王国=オランダ) ブルゴーニュという単語がワインでの影響で=フランスでしょ?というイメージが強いために起こる疑問ですね。 このような歴史を少し知ると、ベルギーが多言語国家というのもうなずけますね。 しかも現在はまたフレンデレン地域とワロン地域が分裂しようとしているわけです。 いとこさん、これで少しは納得いきましたか??